メロヴィング朝 目次 建国と改宗 分裂 王朝の終焉 終焉以後 文化 経済 国王の一覧 系図 神話と伝承 脚注 参考文献 関連項目 案内メニュー改善40002780956メロヴィング朝WorldCat Identities11858118X00567611jx2011032101274645267
フランクの王朝メロヴィング家
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メロヴィング朝
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メロヴィング朝(メロヴィングちょう、仏: Mérovingiens, 英: Merovingian dynasty, 独: Merowinger)は、ゲルマン人(西ゲルマン)であるフランク族の支族のサリ族が築いたフランク王国における最初の王朝である。
メロヴィングの名は、始祖クロヴィスの祖父メロヴィクスにちなむ。4子に分割相続して以後、分裂・内紛を繰り返して衰退した。
目次
1 建国と改宗
1.1 クロヴィス1世
2 分裂
2.1 クロタール
2.2 再分割
2.3 クロタール2世
2.3.1 教会政策
3 王朝の終焉
4 終焉以後
5 文化
5.1 識字率
5.2 地方行政における司教
6 経済
7 国王の一覧
8 系図
9 神話と伝承
10 脚注
11 参考文献
12 関連項目
建国と改宗
フランドルを支配していた小国の王クロヴィス1世(465年 - 511年、位481年 - 511年)が勢力を伸ばし領土を拡大。全フランクを統一し、481年、メロヴィング朝を開いた。496年、クロヴィスはカトリック教徒であった妻との約束により、ゲルマン人に定着していたアリウス派キリスト教(異端宗派)より家臣4,000名とともに正統派のアタナシウス派キリスト教(カトリック)に改宗した(クロヴィスの改宗)。これによって旧西ローマ帝国貴族の支持を得、領内のローマ系住民との関係も改善された。506年に西ゴートをヴイエの戦いで破り、その王アラリック2世を戦死させ、イベリア半島へ駆逐。王国の版図を広げた。
クロヴィス1世
メロヴィング家のフランク族支配を確立したのは、キルデリク1世とその子クロヴィス1世である。
キルデリク1世の時代には異教的な習俗が強かったが、クロヴィスは496年カトリックの洗礼を受け改宗し、同時に主な従士も改宗した。トゥールのグレゴリウスによれば、508年にランスの司教レミギウスによって洗礼を授けられて改宗したという見方が有力となりつつある[1][2]。
フランク王国はゲルマン諸部族のなかでは比較的早く正統信仰を受け入れた国であった。クロヴィス即位当時北ガリアでは、ローマ人のガリア軍司令官シアグリウスがほとんど独立した政権を維持しており、だいたいのちのネウストリアのあたりを支配していた(ソワソン管区)。486年にクロヴィスはシアグリウスとソワソン付近で戦って勝利し、その支配地域を併合した。クロヴィスは491年にテューリンゲン人を服属させ、496年にアレマン族と戦い、ブルグント王の姪でカトリック教徒であったクロティルダと結婚した。507年には当時強勢を誇っていた西ゴート族を破り、アキテーヌを支配下に収めた。クロヴィスは晩年に有力なフランク人貴族を抹殺し、メロヴィング王権を確立した。511年の死の直前にはオルレアンで公会議を開き、メロヴィング朝の教会制度が組織され、アリウス派異端への対処が話し合われた[3]。
分裂
クロヴィスの死後王国は4人の息子たちによって分割され、息子たちはさらに領土を拡大した。息子たちのうち一人が死ぬと、その領土は生き残った国王の支配に服した。メロヴィング朝の分割は、王国を王の私的な財産と考えて行われたわけではなく、あくまでメロヴィング家の世襲財産として行われていたと見るべきである。したがって王の数だけ世襲財産の「持分」が存在したのであり、資格のある王が一人になれば世襲財産はその人物に集中する[4]。
6世紀から7世紀にかけての間に各分王国では徐々にそれぞれの貴族層が固定化され、それが地域的なアイデンティティにつながっていった。高まる各王国の自立性は、後述するクロタール2世の統一を最後に、メロヴィング朝を分裂へと導いていくのである[5]。
クロタール
クロヴィスの息子のうちで最後まで生き残ったクロタールが死ぬ頃(561年)[6]には再び王国は統一されており、しかも地中海沿岸を支配していた有力なゲルマン民族国家は、ユスティニアヌス1世により滅ぼされるか打撃を受けていたため、フランク王国はゲルマン民族の間で最も有力な王国となっていた。
再分割
クロタールの王国は再びその4人の息子たちによって分割され、長男シギベルト1世には王国東部が与えられ、彼の分王国は「アウストラシア」と呼ばれた。アウストラシアの王は飛び地としてプロヴァンスを支配した。次男グントラムにはブルグントの支配が任された[7]。
三男カリベルトには王国西部を、末子キルペリク1世には王国北西部のベルギー地方が与えられた。
567年にカリベルトがなくなると、その支配地は3分王国の間で分配され、キルペリク1世の分王国はノルマンディー地方にまで拡大されて「ネウストリア」と呼ばれるようになった。
クロタール2世
613年、王国はクロタール2世により再び統一されたが、各分王国の自立性は強まっており、各分王国の貴族たちは各分国王のもとで形成されてきた政治的伝統を維持したいと考えていた。
教会政策
614年パリでおこなわれた教会会議の直後、クロタール2世は「パリ勅令」を公布した。この勅令は各分王国の貴族たちの要求を受け入れる形で、アウストラシアとブルグントでは宮宰を国王の代理人とするものであった。クロタール2世はもともとネウストリアの分国王であったので、ネウストリアは国王が直接統治した。またこの勅令で教会に裁判特権を与えた。この教会への譲歩については王権に対する教会の支持を盤石にしたという見解と王権の教会への妥協であり王権の衰微であるという見解がある。ピレンヌは前者の見解を取る。こうして各分王国で宮宰が特別な地位を認められるようになった。
クロタール2世の時代はメロヴィング朝の教会政策においても転換期となっている。クロタール2世は、ガロ・ローマン的セナトール貴族を支持基盤としていた王妃ブルンヒルドに反発したアウストラシアのゲルマン貴族に支持されており[8]、従来のセナトール貴族と結びついた司教制度は衰退に向かい、アイルランド修道制を導入した修道院運動が活発化した[8][9]。これはメロヴィング朝フランク王国内の南北での教会会議の開催数の差によって確認することができ、アイルランド修道制が流布したロワール川以北のフランキア地方では、640年までに5回を数えるのみなのに対し、ロワール川以南では同時期40回を数えた[8]。ロワール川以北では司教活動は明らかに衰退したのである。司教の出自も7世紀を境に、セナトール貴族中心であったものが、ゲルマン貴族が目立つようになってくる。
ゲルマン貴族が司教職に進出したことの背景の一つは、590年聖コルンバヌスによって設立されたリュクスイユ修道院がフランク貴族子弟の教育機関となって、多くのゲルマン人司教を養成することに成功したことである[10]。クロタール2世は前述の614年「パリ勅令」において聖職叙任規定に言及し、パリ教会会議の決定に基づいて首都司教に司教の叙階権のみを認め、選出権は当該教区の聖職者と信徒の共同体に限定した。しかし、選出と叙階の間に王権による審査を経ての叙任令に基づく叙任が必要とされている[11]。
H・ヴィエルツボルスキーの研究は教会会議に参加する司教のローマ名と非ローマ名の割合は7世紀を境に大きく変化したことを明らかにしている。それによれば、6世紀前半には出席者はほぼ全員がローマ名であったが、6世紀後半になると非ローマ名の割合が増加し、7世紀に入ると非ローマ名の割合はさらに急激に伸びて約半数を占めている[11]。
7世紀には、次第に分割された分国(地域)の宮宰に権力が移っていく。この状況下でアウストラシアのカロリング家をはじめネウストリア、ブルグント三分国(地域)の宮宰の台頭は著しいものがあった。
王朝の終焉
7世紀後半から王国の行政および財政を取り仕切る宮宰(きゅうさい, major domus)に実権が移ってゆく。714年から宮宰に就任していたカロリング家のカール・マルテルは教会から没収した土地を家臣たちへ与えて軍を再編[12]。その後、732年にはイベリア半島から領内に進攻してきたイスラム帝国のウマイヤ朝軍をトゥール・ポワティエ間の戦いにおいて破り、西欧キリスト教世界に対するイスラム勢力の進出を食い止めた[12]。751年にマルテルの子、ピピン3世(小ピピン)がローマ教皇の支持を得てカロリング朝を開いたことで、メロヴィング朝は終わった[13]。
終焉以後
メロヴィング朝によるフランク王国の支配が終わりを告げた後もその血筋自体は途絶えることなく存続している。具体的には最後の国王キルデリク3世の曾祖父とされるクロヴィス2世の異母兄シギベルト3世の系統とクロヴィス2世の息子テウデリク3世の系統のことである。
シギベルト3世の子にアウストラシア王のダゴベルト2世、ダゴベルト2世と王妃ギゼラの子に娘2人とシギベルト4世(シギベルト1世)。
シギベルト4世(1世)の子女にギゼラとシギベルト2世の2人。
シギベルト2世の子孫は大いに繁栄している。一方、ギゼラはランのカリベルト(クロヴィス2世の子テウデリク3世とその王妃クロティルダの娘ベルトラダの息子)との間にランのギゼラ、ランのベルトラダの2女を儲けている。ランのギゼラが最後の国王キルデリク3世の王妃でその子テウデリクの母である。
ランのベルトラダはピピン3世(ランのベルトラダの父方の曾祖母クロティルダの兄弟ピピン2世の庶流の孫)と結婚、カール大帝をはじめとする7子の母となっている(但し、カール大帝の実母に関してはランのベルトラダではないという異説がある)。
以上のことから、キルペリク1世・クロタール2世父子の血筋は、クロヴィス2世・テウデリク3世の女系子孫とシギベルト3世・ダゴベルト2世父子の男系子孫・女系子孫の間で存続していることになる。
なお、613年にクロタール2世に敗れて処刑されたブルンヒルドの曾孫の1人キルデベルト(602年/603年頃 - 645年頃、テウデリク2世の次男。シギベルト2世のすぐ下の弟)がアルルへ逃走することに成功している。このキルデベルトの末裔がブルボン朝の第2代国王ルイ14世の寵姫の1人であるモンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイスであるという。キルデベルトの弟にはコルボ(コルブス)とメロヴィクの2人がおり、コルボはシギベルト2世と同じく殺害されたが、メロヴィクに関してはクロタール2世が名付け親であった為、当時の慣習によって助命された後、保護・監視を受けた。このメロヴィクに配偶者と子女、子孫は確認出来ない。
文化
のちのカロリング朝と違って、メロヴィング朝では多数の教養ある俗人が政府内に存在した。ピレンヌは次のような人物を列挙する。テウデベルト1世の寵臣であったアステリオルスおよびセクンディヌスは修辞学に秀でていた[14]。おなじくテウデベルト1世に仕えたパルテニウスもローマで教養を身につけた人物であった。クロタール2世の王室財務官をつとめたカオールのデシデリウスも雄弁術やローマ法に精通していた[15]。
識字率
7世紀のクロタール2世の時代までは社会全体の識字率はカロリング朝のころよりも高く、したがってメロヴィング朝の宮廷文化はカール大帝の時代とは異なって世俗的な教養に支えられていた。フランク王国がゲルマン人の王国の中で比較的早期に正統信仰を受け入れたとはいえ、ローマを中心とする西方の教会の影響を強く受けたというわけではない。このころのローマ教皇はガリアにまで強い影響力を行使できるほど卓越していたわけではなかった。クロヴィスはローマ教皇とではなく東ローマ皇帝と直接外交した。クロヴィスの時代にはローマよりはコンスタンティノープルの宮廷が大きな影響を及ぼしていた。[要出典]
地方行政における司教
メロヴィング朝の宮廷は全く世俗的であったが、その地方行政においては司教が中心的な役割を担っていた。メロヴィング朝の宮廷は地方支配の組織を欠いており、司教が実質的に地方統治を担当していた。宮廷で官僚として出世した者たちは地方に転出するときに司教職を望んだ。カロリング家の権力掌握過程でもこの事実は確認できる。アウストラシアの宮宰であるカロリング家はネウストリア、ブルグント、プロヴァンス各地の司教職に一門を送り込むことで地方支配に影響を及ぼした。やがて8世紀半ばにイングランドからの影響でフランク王国に大司教制が導入されると、ゲルマニア・ルーアン・ランス・サンスの大司教をカロリング家が占めた。カロリング朝の時代には司教職と地方支配に対する王権の影響力は増加した。[要出典]
経済
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王国の経済に注目すれば、東ローマ帝国の地中海再征服以降ガリアは地中海の経済圏から分離される傾向が強くなり、ブリタニアとの強い結びつきが認められる。6世紀からはこのような経済圏の形成と歩調を合わせるかのようにメロヴィング王朝の北方化・内陸化が進展し、東ローマ帝国の影響は希薄となった。しかしこの経済圏はアイルランドまでは含んでおらず、アイルランドはイベリア半島を通じて伝統的な地中海経済圏とつながっていた。この時期のブリテン諸島は東部がブルトン的・アングロ・サクソン的で、ガリアや北海と結びついていたのに対し、西部はケルト的であるという著しい対照をなしていた。このころイベリア半島のタラコは、西地中海交易の拠点カルタゴと深く結びついて、ジブラルタル海峡を越えてアイルランドまで続く大西洋岸の交易網の基点となっていた。このアイルランド交易は5世紀後半に顕著となる。西ゴート族のイベリア占領にもタラコはほとんど影響を蒙ることなく、4〜5世紀の間西地中海の交易拠点であり続けたが、東ローマ帝国による地中海再征服の影響で5世紀半ば頃から徐々に衰退に向かった。
国王の一覧
- 初代:クロヴィス1世(在位481-511)
- 2代目:クロタール1世(在位558-561) 領土拡大、再統一
- 3代目:クロタール2世(在位613-629)
- 4代目:ダゴベルト1世(在位629-639)
- 5代目:クロヴィス2世(在位639-658)
- 6代目:クロタール3世(在位658-673)
- 7代目:キルデリク2世(在位673-675)
- 8代目:テウデリク3世(在位679-690)
- 9代目:クロヴィス4世(在位690-694)
- 10代目:キルデベルト3世(在位694-711)
- 11代目:ダゴベルト3世(在位711-715)
- 12代目:キルペリク2世(在位715-721)
- 13代目:テウデリク4世(在位721-737)
- 14代目:キルデリク3世(在位743-751)
系図
メロヴィクス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
キルデリク1世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
名前未詳 | クロヴィス1世 フランク王 | クロティルド ブルグント王女 | アウドフレダ | テオドリック 東ゴート王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
テウデリク1世 ランスの王 | クロドメール オルレアンの王 | キルデベルト1世 パリの王 | クロタール1世 ソワソンの王 全フランクの王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
テウデベルト1世 ランスの王 | カリベルト1世 パリの王 | グントラム オルレアンの王 (ブルグント王) | シギベルト1世 ランスの王 (アウストラシア王) | ブルンヒルド 西ゴート王女 | アウドヴェラ | キルペリク1世 ソワソンの王 (ネウストリア王) | フレデグンド | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
テオデバルド ランスの王 | エンマ =ケント王エアドバルド | ベルタ =ケント王エゼルベルト1世 | キルデベルト2世 アウストラシア王 ブルグント王 | ヘルメネギルド (西ゴート王子) | イングンド | メロヴィク | クロタール2世 フランク王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
テウデベルト2世 アウストラシア王 | テウデリク2世 アウストラシア王 ブルグント王 | ダゴベルト1世 フランク王 | カリベルト2世 アキタニア王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
シギベルト2世 アウストラシア王 ブルグント王 | シギベルト3世 アウストラシア王 | クロヴィス2世 ネウストリア王 ブルグント王 | キルペリク アキタニア王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(養子) キルデベルト養子王 (宮宰グリモアルド1世子) アウストラシア王 | ダゴベルト2世 アウストラシア王 | クロタール3世 ネウストリア王 ブルグント王 | キルデリク2世 アウストラシア王 | テウデリク3世 フランク王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
クロヴィス3世 アウストラシア王 | キルペリク2世 ネウストリア王 アウストラシア王 | クロヴィス4世 フランク王 | キルデベルト3世 フランク王 | クロタール4世 アウストラシア王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
キルデリク3世 フランク王 | ダゴベルト3世 フランク王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
テウデリク4世 フランク王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
神話と伝承
- メロヴィング朝の始祖は、海神の末裔である[16]。
メロヴィング朝の始祖は、トロイの王族の血を引く云々[要出典]。- メロヴィング朝の(母系の)祖先は、ナザレのイエスとマグダラのマリアの間に生まれた娘サラの血を引く云々[17]。
メロヴィング朝の末裔には、44人ものアメリカ合衆国大統領がいる[要出典]。
脚注
^ レジーヌ・ル・ジャン 2009, p. 20.
^ Ian Wood 1995, p. 48.
^ レジーヌ・ル・ジャン 2009, p. 21.
^ レジーヌ・ル・ジャン 2009, pp. 22-23.
^ レジーヌ・ル・ジャン 2009, p. 28.
^ A・ティエリ『メロヴィング王朝史話』岩波文庫、1992年、P.35。
^ A・ティエリ『メロヴィング王朝史話』岩波文庫、1992年、P.37。- ^ abc長谷川博隆 1985, 徳田直宏「クロタール二世の教会支配」,pp111-112.
^ H・I・マルー 1996, pp. 460-462.
^ 徳田直宏「コルムバヌス修道院運動--メロヴインガー・フランクの政治史的・教会史的転換期に関する一考察」『名古屋大学文学部研究論集』、名古屋大学文学部、1971年3月、 65-102頁、 .mw-parser-output cite.citationfont-style:inherit.mw-parser-output .citation qquotes:"""""""'""'".mw-parser-output .citation .cs1-lock-free abackground:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Lock-green.svg/9px-Lock-green.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration abackground:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg/9px-Lock-gray-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription abackground:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/aa/Lock-red-alt-2.svg/9px-Lock-red-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registrationcolor:#555.mw-parser-output .cs1-subscription span,.mw-parser-output .cs1-registration spanborder-bottom:1px dotted;cursor:help.mw-parser-output .cs1-ws-icon abackground:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/12px-Wikisource-logo.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center.mw-parser-output code.cs1-codecolor:inherit;background:inherit;border:inherit;padding:inherit.mw-parser-output .cs1-hidden-errordisplay:none;font-size:100%.mw-parser-output .cs1-visible-errorfont-size:100%.mw-parser-output .cs1-maintdisplay:none;color:#33aa33;margin-left:0.3em.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration,.mw-parser-output .cs1-formatfont-size:95%.mw-parser-output .cs1-kern-left,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-leftpadding-left:0.2em.mw-parser-output .cs1-kern-right,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-rightpadding-right:0.2em
NAID 40002780956。- ^ ab長谷川博隆 1985, 徳田直宏「クロタール二世の教会支配」,p145.
- ^ ab柴田 他、p. 155
^ 柴田 他、p. 157
^ H・ピレンヌ『ヨーロッパ世界の誕生』創文社、1993年、191p。
^ H・ピレンヌ『ヨーロッパ世界の誕生』創文社、1993年、192p。
^ 『クローヴィス』p. 21.
^ 『レンヌ=ル=シャトーの謎』[要ページ番号]
参考文献
- ティエリ, オーギュスタン『メロヴィング王朝史話 上』小島輝正訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1992年8月。
ISBN 978-4-00-334611-2。 - ティエリ, オーギュスタン『メロヴィング王朝史話 下』小島輝正訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1992年10月。
ISBN 978-4-00-334612-9。 - ベイジェント, マイケル、リー, リチャード、リンカーン, ヘンリー『レンヌ=ル=シャトーの謎 イエスの血脈と聖杯伝説』柏書房〈叢書ラウルス〉、1997年7月。
ISBN 978-4-7601-1443-6。 - ミュソ=グラール, ルネ『クローヴィス』加納修訳、白水社〈文庫クセジュ 831〉、2000年8月。
ISBN 978-4-560-05831-2。
ル・ジャン, レジーヌ 『メロヴィング朝』 加納修訳、白水社〈文庫クセジュ 939〉、2009年9月。ISBN 978-4-560-50939-5。- マルー, H・I『キリスト教史 2 教父時代』上智大学中世思想研究所訳、平凡社〈平凡社ライブラリー 168〉、1996年10月。
ISBN 978-4582761689。 - Ian Wood (1995). The Merovingian Kingdoms, 450-751. Longman.
- 長谷川博隆 『ヨーロッパ—国家・中間権力・民衆—』名古屋大学出版会、1985年。
- 柴田三千雄 他編 『世界歴史大系 フランス史1』、山川出版社、1995年
関連項目
- フランスの歴史
- カロリング朝
カテゴリ:
- フランクの王朝
- メロヴィング家
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